2008.8.16

同窓会に行ってきました。

即座に「アイツ」とわかる顔もあるかと思うと、卒業写真の顔と名前
を照らし合わせて、やっとのおもいで記憶が蘇る顔もある。こんなに
時間が流れてしまったのかと思うと、再会できてよかったと人生に感
謝するひと時でした。こんなに素晴らしい席を準備してくれた幹事の
みなさんには、こころから感謝です。
アキノリくん、アケミちゃん、シゲ、カツミちゃん、トモコちゃん、カズミ
ちゃん、ありがとう。

私が通った中学校の正門付近の古い画像です。今は少子化の時
代、生徒数の減少による学校統廃合によって廃校となり、この校舎
も跡形もなく取り壊されてしまいました。日本のいたるところで母校
が消滅するという悲しみを共有している人は、きっとたくさん居ると
思います。心の中にそっとしまっておく思い出もあれば、いつまでも
形の上で(物理的に)残っていてほしい思い出もありますよね。

”懐かしい友の顔がひとつひとつ浮かぶ”なんて、すこし古すぎるフ
レーズですが、まさにそんな言葉がシックリくる久しぶりの楽しいひ
と時でした。あの頃はケンカしてもすぐ仲直り、そしてまたケンカ。
でも何時も一緒に遊んでいた。相手を知り自分を知るとても大切
な、かけがえの無い時間でした。

”笑って何ぼの人生”ですもの
むかしと少しも変わらない笑顔が嬉しかった。相変わらず誰にもや
さしいヤス!ありがとう。笑顔がステキなユウコちゃん!ありがと
う。私もかなりお酒が回っていましたので、シャッターは沢山きっ
たのですが、後で見てみたらピンボケばかり。モトミッチャーン
ハヨー画像CDばオクッテー。サンペーちゃんに会えてよかった。

2008.8.22

コトーくんからメールがきた。

コトーくんと私は小学校の6年間そして中学校の3年間ズーッとクラ
スが同じだった唯一の友達です。当時からその偶然を毎年のように
喜びあい、お互いの家の農作業を手伝ったり、同じ風呂に入り、そ
れこそ同じ釜の飯を食べて育った仲です。いつでも会えるとお互い
そう思っていたのに、なかなか会う機会も無く、久しぶりに先日の同
窓会で再会する事ができて本当に嬉しくなりました。これからもメー
ルください。待ってます。

2008.8.22

モトミッチャンから画像が届いた。

幅360ピクセルでいったん処理してみたら陰影が付きすぎてみんな
の顔が真っ黒になってしまったので幅480ピクセルで貼り付けまし
た。メールに添付された画像だったので、後日CDで送ってきたら貼
り付けなおします。

2008.8.22

ナオちゃんからメールがきた。

私の思い出の中のナオちゃんは、キュートでチャームな”魔女っ子
めぐ”みたいな子でした。小学校、中学校のころから活発に自分の
意見をハッキリいえる子でした。ナオちゃんのあの爽やかさはまる
で”春風”のようだった。私の育った集落からすればナオちゃんは
当時都会の子だった。同窓会で再会した時もあの頃とまったく変わ
らない笑顔で話しかけてくれた。ナオちゃん有難う。そしてこれか
らもよろしく。

2008.8.24

最近教えてもらいました。

故郷から遠く離れていても、ふうットしたときに思い出している事が
あります。それはやっぱり母のことです。友達のことです。父のこと
です。どうしても母が1番なんです。そんな時に聴きたい歌は、
SEAMO の MOTHER と
FUNKY MONKEY BABIES の MY HOME
がいいですョ。
是非聴いてみてください。
どちらも日本の若いアーティストです。
草場家では密かにブレーク中です。

2008.8.27

フジオーッに電話しました。

今日は休日だったので、先日帰省の際にお世話になった従弟のフ
ジオーッにお礼の電話を入れました。小さい頃からピッタリ気の会う
人というのはそんなに沢山は居ない筈ですが、どう言う訳だか遊ぶ
のも、面白い事を思いつくのも、悪戯をして怒られるのも何時も一
緒、豪快に笑っているかと思うと、すぐに次の遊びを考えている。顔
を見るだけで、声を聴くだけで元気が出てくる。そんなフジオーッと
遊ぶのがいつも楽しみでした。このブログを読まれた方の周りにも
キットそんな人が居ると思います。まだあなたがその事に気づいて
いないだけなのかもしれませんヨ。

2008.8.31

ツジと電話で。

三鷹台のオンボロアパートにしばらく居候させてもらったあの頃、
テレビでは「俺たちの旅」だったか「俺たちの朝」だったか、アパート
にほど近い井の頭公園あたりが舞台になったドラマが受けていまし
た。すっかり貧乏学生も板に付き、電気屋のゴミ捨て場からモノクロ
のテレビを拾ってきたはいいけれど、ウントモスントモ映りはしない。
そんなときは”最後のギャンブル”=おもいきってたたいてみる。
すると何やら怪しい音、映像よりも先に音に変化があった。人の声
やら音楽やらが聞こえ始めた。チューナーを回していったら今度は
映像も見え始めた。こうして彼は、仲間内でも数少ないテレビオー
ナーとなったのでした。こんな取り止めの無い30年も前の話をしま
した。

2008.9.9

ちかちゃんの絵。

中学2年の夏休みのスケッチの宿題だったと思うのですが、それは
それは美しいエンゼルフィッシュが水草の水槽で戯れる夢のような
絵が張り出されました。最初にその絵を見たときは、むしろ不自然
なような、少し不思議な印象がありました。それは私がエンゼルフ
ィッシュというものを全く知らなかったからなのですが、何度か見
ているうちにこんなに綺麗な魚がこの世に本当に居るのだろうか、
居るのなら一度でいいから見てみたい。と思うようになりました。
この絵を描いたちかちゃんちには当時熱帯魚が飼ってあったかどう
か、今度あったら訊いてみたいと思います。
もし私の記憶がでたらめで、そんな絵は知らないと言われたらどう
しよう!最近記憶に自信が持てなくなって来た感は否めないのです
が、少し自信があったので書いてみました。

2008.9.12

いくばーい。

これまた中学生の頃ヤスヒコちゃんと二人で新聞配達をしていた
頃の話です。雨が降ろうが雪が降ろうが休めないのが新聞配達。
勿論試験中でも...
ある中間試験中の出来事です。学校から帰ったらまず睡眠をとり、
静かになった真夜中に効率のいい勉強をする。のつもりが...
学生の頃に良くやった一夜漬けを敢行するべく二人で話し合い、
ぐっすり眠っていると、「いくばーい」の声。
外を見てみると相棒のヤスヒコちゃんの姿。しまった寝坊だ!!
いつもなら夜が明けきらないうちに出発するのだからもっと暗い筈、
やばい、配達を早く終わらせなければ学校にも遅刻してしまう。
どうして母ちゃんは起こしてくれなかったのだろうと愚痴を言い
ながら、寒くないようにマフラーを首に巻いたり手袋を用意したり。
そうこうしているうちに母ちゃんが帰ってきて大笑い.!.!.!.
なんとまだ明日になっていなかったのだ。まだ夕暮れが始まったば
かりの時間だったのです。よく言えば2人とも責任感のある良い
青年だったとも言えるのですが、別の言い方をすればとんだ
オオボケでしたね。

2008.9.13

かずよちゃんからメールがきた。

私とかずよちゃんはまるで兄妹のように仲がいいかと思うと、あると
きは大きな声を張り上げて口喧嘩もしました。
炭鉱の閉山、そして友達との別れ、その後で待っていたのが、生徒
数の急激な減少により既存の部活(当時はクラブと普通に使ってい
たような気がする)数を減らさなければ、部活全体が弱体化すると
の判断から実施された”クラブ存続選挙”
クラブの存続をかけた全校生徒による投票が実施される事となりま
した。部活をしている者はもちろん自分の部活に1票を投じる。そう
なると部活をしていない生徒の1票がクラブの存続を左右すること
になる、ならば”必死に票集め!”
結果は、バレー部”存続”バスケットボール部”廃部”
あまりに悲しくて落胆している私に優しい言葉をかけてくれたのは
かずよちゃんでした。どんな言葉で慰めてくれたのかは覚えていな
いのですが、とにかくどんな時でも優しい女の子でした。

2008.9.17

有頂天だぜ。

小学校の1年か2年生の頃の話です。当時はまだ蒸気機関車(SL)
が黒い煙を吐きながら私の故郷を走っていました。
幼馴染のアキノリくんのお父さんが、当時国鉄に勤務されていた時
に、蒸気機関車の運転室にアキノリくんと一緒に乗せてもらった事
(今ではとても考えられない事ですが)がありました。
男の子なら一度は体験してみたい夢の出来事です。レバーひとつで
真っ白な蒸気が機関車の足元から”シューッ”。真っ黒な煙が煙突
がら”ゴーッ”。車輪が回りだすと”シュウーシュ、シュウーシュッ”。
汽笛が”ポウーッ”。連結器が”ゴツンゴツン”きしみだす。
圧巻なのは燃料補給。円形の補給口の扉が真ん中から左右に開く
目が眩むほどの炎の光と、肌が焼けるほどの熱さ、扉が開いている
のは僅かな瞬間だ。タイミングを合わせながら石炭を入れる。
少しでも遅れようものなら石炭が閉まった扉に跳ね返される。
次の日、会う友達、会う友達にそのことを自慢する。
あんなに”有頂天”になったのは初めてだったかも知れません。
まるで自分だけがイッパシになったような”有頂天”小僧でした。

2008.9.18

ひでおちゃんはスゴカー。

中学3年生の頃だったと思います。いまでも当時と変わらない"ナイ
スガイ"ひでおちゃんの家へ時々遊びに行きました。気がいいと言う
か人がいいと言うか、サッパリしたひでおちゃんの性格がとても心地
良く、遊びに行くのが楽しみでした。その頃ひでおちゃんと一緒に聴
いたレコードは、ちあきなおみの”喝采と、ガロの”学生街の喫茶店”
でした。
ある日の事、とあるミニチュアを集めていた私は、それを飾る棚が
欲しくて自分で作ってみようと何度か試みたのですがうまく行かず、
木工の得意なひでおちゃんに相談しました。
「そいならオイがつくっちゃるけん!」と安請け合い。
ところがわずか2、3日しかたたないうちにできたから取りに来い
との事、ひでおちゃんちに行って見ると想像よりもとてもおおきな
1m角ほどの棚ができていました。斜めにブレスが入ったその棚は
オシャレで、しかも寸部の狂いも無く一切のガタツキもありません。
こんなスゴイ物を、とても中学3年生が作れるとは考えられ無い
出来でした。
ひでおちゃんは”スゴカー”と思わず叫びました。
今でもその棚は、私の実家で活躍しています。

2008.9.22

じゅんちゃんからメールがきた。

私が初めてじゅんちゃんに出会ったのは、小学1年生のときです。
本読みが上手で、計算も得意で、身綺麗にしてて、楽器も上手で、
当時の私(何の特技も無い、ボーッとしたはなたれ小僧)にとって
は、遠い遠い憧れの存在でした。
小学2年の頃だったと思います。雪がちらついていたのでキット寒い
冬の頃、グループ学習でみきおくんの家に集まって何か課題(課題
の内容は覚えていません)を仕上げる事になった時のことを覚えて
います。どんどん進んでいく話に頷くだけの私と、リードしてゆく
じゅんちゃんの回転のよさはまるで”月とすっぽん”。
ヘコムよりも先に、頼りになるなーと関心しきりでした。
中学時代も、放送委員や生徒会の仕事をなんでもテキパキこなして
くれるじゅんちゃんにまかせっきりで、いつも迷惑ばかりかけていた
ような気がします。

2008.9.23

ロマンチックボーイ。

昔の事です、それこそテレビのチャンネルもNHKの2局と民放が一
つか二つやっと映る家庭がほとんどの時代。学校へ行けば同じ番
組の話題がまかり通る時代でした。
モトミッチャンといえばすぐに思い出すのが、南総里見八犬伝と
ルーツの話。”さも次郎”と”たまずさが怨霊”
と”クンタキンテ”。
情報の少ない時代です。この先の展開がどうなるのか互いに勝手
な想像をめぐらし予想する。こんなことが普通の会話だったよう
に思います。今の時代では成立しない話です。
見ている番組は違うだろうし、ネットで調べたり、テレビ雑誌でも
読めば先の話も分かる。その点は昔の方が良かったと思います。
テレビ一つとってもこんなに盛り上がれたのですから。
高校生のある日、モトミッチャンちに遊びに行ったら当時売られ
ていた映画雑誌が沢山並んでいました。オードリーヘップバーン、
ソフィアローレン、スティーブマックィーン、
ジュリアーノジェンマ・・・
その日は、”根っからの武道系スポーツマン”モトミッチャンの
印象が変わってしまった一日でした。

2008.9.23

エー晴天に恵まれまして。

中体連の応援は辛かった。でもそんな時は得意のジョークで乗り切
っていたのがヤスノブくんと私。必ず開会式にはタシロコウタ先生
の話を聴かされる。今から思えばあれも教育の一環だったのでしょ
うが、応援部隊にとっては、炎天下の辛さ以上の苦痛にまで思えた
毎度の長い挨拶。
「エー晴天に恵まれまして」から始まる名文句も、これから一日か
と思うとピンとこない。でもそれがヤスノブくんにかかれば楽しい
物まねショーの始まりだ。まず、進行司会のマイク放送から始まる。
「それでは始めにタシロコウタ先生のお話を伺います」とヤスノブくん
がまねる。おもむろに次は私の出番「エー晴天に恵まれまして・・・」
こんな事を一日何度も繰り返しながら、時には役どころを交代しな
がら辛い事も楽しい事に変えてしのいでいたのです。
選手の皆さんも大変だったでしょうが、応援部隊にとっても過酷な
一日だったことをお忘れなく。
それからもう一つ、互いの駄洒落が予定通り決まらなかったとき
は、必ず「ヤナヤツ コヤツ キョウノオヤツハ ドーナッツ」と互い
の労をねぎらう儀式として、その一文で相手を罵倒して締めくくる
のが、二人の間の暗黙のルールとなっていました。

2008.9.25

難波SHOT!

これって、バスケット界で関西地方に古くから伝わる”ミラクルシュ
ートの妙技”の呼び名では?と連想させる響きだと思いませんか。
元気良く大きな声でもう一度「難波SHOT!」
中学時代はツルツルボウズが宿命のヘアースタイル。自分の頭の
形が前方後円墳ならぬ前円後方墳の珍しい形であることに気づか
されたのは、入学してからすぐのころ、珍しい後方の盛り上がり
がさらに二つに分かれている。みんなと違うそんな頭の形を少し
気にして、みんなの頭を見ていたら、いきなり後ろから私の頭をピ
シャリとたたいた人がいた。「ナンバショット!」
それは何時も面白い事をしてみんなを笑わせるケイちゃんだった。
「このボイン頭がー」(ネーミングは少しヒンシュクモノですが)
とケイちゃんが言い返す。良く見てみたらケイちゃんの頭の形も私
と同じそのボイン頭というやつだったのだ。まるでその時ケイちゃ
んは、お互いのその特徴を気にするどころか楽しんでるといった
印象だったのです。
それからというもの学校の何処で会っても、互いの頭を後ろからピ
シャリとたたいては、「ナンバショット!」「このボイン頭がー」
の繰り返し。二人の間には、いつのまにかちょっとした連帯感が
生まれていました。

2008.9.27

速すぎる!

小学4年生まで”カナヅチ”だった私は、毎年夏休みになると水深
50cmほどのちびっこ用のプールで、自分より年下の子とばかり
遊んでいました。同級生だけでなく、年下の子までが別の大きな深
いプールで楽しそうに遊んでいる。そんな姿を羨望の眼差しでただ
ただ見つめる私でした。
だけど自分はフォームだけは誰よりもかっこいい。キットいつか泳げ
るようになる。そう信じるほか無かったのです。内心では、このまま
大人になっても泳げないのではないかと少し不安でした。
5年生の夏休み、奮闘努力の甲斐もあって泳げるようになった私は、
”カナヅチ”時代のうっぷんを晴らすかの如く泳ぎの練習に夢中にな
りました。”カナヅチ”時代に完成された鉄壁のフォームの威力は絶
大で、誰と競争しても負けることはありませんでした。以来水泳は、
私の中で得意中の得意種目となりました。
中学3年の水泳大会、これといって他のスポーツに特技の無かった私
にとって最高の晴れ舞台がやってきました。この大会で優勝すると優
勝者は市の大会に出る事になっていました。水泳だけは誰にも負けた
ことがない。キット自分が学校の代表になると信じていました。
久富先生のフエが鳴る。25mクロール必死に泳いだ。
12秒1。これなら優勝だ。自己新記録。
後から後からみんなが泳ぐ。
その中に一人とんでもないヤツがいた。それは”シューチャン”
力強いフォーム!速い!、速すぎる!、
私の結果は2位。あの時ばかりは「上には上が...」でした。

2008.9.29

ホームグランド。

以前の旧みやのせ橋は、今より少し西に位置し、当時の堤防が低かっ
たために、今よりかなり低い位置に架かっていました。それでも当時
の私たちにとって、橋の上から見下ろす水面までの高さは、相当な
驚異でした。秋のころになると、朝は水面から蒸発する朝モヤが、温
泉の湯気のように見える事もありました。誰か釣りをしているなと見
てみると、大概床屋のオヤジか街の駐在サンでした。橋脚の側だけが
深みになっていて、どうやらソコがポイントのようでした。
中学生のある日、橋の周辺をまるでホームグランドにしていた
カズヒコくんとナマズを捕りに行きました。橋から400mほど上流
の川の真ん中に、3mほどの大きな岩がポツンと顔を出しています。
カズヒコくんに案内されて、水中メガネを着けて潜ってみると、川底
と岩の間に大きなナマズが何匹もいます。捕まえようと試みるのです
がなかなか上手くいきません。握ったかと思ってもツルリと逃げる。
いるのが分かっているだけに、胸の鼓動はいっそう激しくなります。
さすが地元!
カズヒコくんだけが数匹捕まえました。その秘訣を訊いてみると、ソー
ット手を近づけていって、30cmほどまで近づいたら、後はイッキ
に両手でエラの部分を力一杯握り締めるのがいい。と言う事でした。
私も甲斐あって最後に1匹捕まえました。キット優しいカズヒコくん
は私が1匹捕まえるまで待っていてくれてたのだと思います。

2008.9.30

ヤマト考。

高校生のある日の事、何をして遊ぼうと言う事になったのか?
学校帰りに途中下車、駅に到着、改札を出るなり2人乗り自転車
が猛ダッシュ。なぜ?どうして?分からない?
家に着くなりすぐテレビ。
私「マンガかー!」
ヤスアキ「シッ、シーッ!!」
しばらく静かに見ていたら、古代が沖田がああだとか、波動砲が
ワープがこうだとか、何の事だか意味不明。やっと終わったので
訊いてみると「地球はガミラス帝国の攻撃を受け放射能に汚染さ
れる。その瀕死の地球を救うため放射能除去装置を受け取りに、
14万8千光年の彼方にあるイスカンダル星へ旅立つ
宇宙戦艦ヤマト」の物語。
どうやらやっと猛ダッシュの理由がわかった。
ビデオもディスクも無い時代、テレビを見るのも真剣だった。どう
しても今日のこの時を逃せない。呼び名もマンガ映画とは恐れ多
い。アニメーション大作と呼ばなければならないのだそうだ。
松本零士が大好きでテレビにかじりついていたヤスアキが懐かし
い。今頃ヤスアキの野郎(永久なる親愛の情を込めて)、銀河鉄道
にでも乗ってのんびり旅をしているに違いない。

2008.10.1

しゅくの3爺。

これは小学校に入学した頃の思い出です。必ず登校する時に
通るタバコ屋(はっちゃんち)の角に差し掛かると右手に床屋
(ヤスアキんちの隣)があって、そこの爺さんが店の周りを毎
朝掃除していました。この爺さん、「だいぶ歳なので持つ手の
はさみが震えるようになった。」との噂でした。
左へ曲がるとすぐに右手に薬局があって白衣に白髪、歳の割に
は長身で痩せ表の、メガネの博士タイプの爺さんが、毎朝店と
すぐ隣の自宅を行き来していました。更に東へ向かうと左手に
鍛冶屋があって、少し太目の色黒の肉感的な職人爺さんがいま
した。街へ行くと色んな爺さんがいるもんだなあと面白がって
いました。
中でも一番好きだったのは鍛冶屋の爺さんでした。寡黙な中に
も優しさがにじみ出ているような人で、戸口から黙って仕事ぶ
りを見ていてもムッツリ何にも言わないのですが、その代わり追
い払うような事もありません。ある日学校帰りにのぞいてみた
ら、爺さんが手招きをして仕事振りを見せてくれたのを覚えて
います。爺さんが風きんでゴーゴー空気を送ると、燃料のコー
クスが赤黒い色から明るいオレンジ色に変わります。爺さんは
汗をかきながら真っ赤に焼けた鉄を打つのです。爺さんも歳だ
ったからか、私が小学校3年か4年のころに、その鍛冶屋は廃
業したと思います。

2008.10.2

ベストミュージシャン。

深夜のラジオを聴き始めたのは、中学生の頃という人が多かった
と思います。最初はトークが面白いから聴いていたのですが、知
らず知らずの内に音楽番組も楽しみになりました。
タケヒコくんはディープパープル
カジヤマくんはロバータフラックとスリーディグリーズ
コトーくんはベンチャーズと吉田拓朗が好きでした。
ダニエルビダル、シルビーバルタン、耳慣れないアーティストの楽曲
もその頃よくラジオから流れていました。
そんなある日の事、アキラくんが私のうちへ遊びにきた日の事を
覚えています。
ギター代わりのホウキを持って「ホリデーイッツァホリデー.....」
「ドウコカウデー.....」下手、お世辞にも上手いとはいえない。
アキラくんの場合、歌は情感を込めて歌うより、ふざけてストレスを
発散するためのものだったようです。近所に恥ずかしいから止めろ
と言われるまで、2人は大声でふざけ尽くしました。
1曲目はミシェルポルナレフの「ホリデー」
2曲目は上條恒彦の「誰かが風の中で」です。
いつの頃だったのでしょう。最高に感動したのはケイちゃんの弾き
語りでした。吉田拓朗の「結婚しようよ」と「旅の宿」を聴かせて
もらった事があります。歌もしっとり。ギターも軽やか。
うまい!最高にうまい!
私にとって、同級生の中のベストミュージシャンはケイちゃんです。

2008.10.3

一期一会。

26年くらい前の事、突然シンジくんが当時私が住んでいた太田市
のアパートへやって来た。シンジくんは中学時代バスケットで一緒
に頑張ったチームメイトだ。
懐かしい話もそこそこに、シンジくんは切り出した。
「ベラウに行く」「ベラウてどこー」
「アントニオ猪木が島買うて持っとるとこ」「そけ何しに」
「ツアーコンサルタントの仕事たい」「ナンヤソリャー」
日本ではパラオ共和国の名で知られる常夏のベラウへ、旅行会社
の現地専任スタッフとして、数日の研修の後出発すると言うのだ。
何事にも真摯な姿勢は変わらない、周囲の不安は彼の決意の前
には無意味なくらい些細な事に思えてくる。常にその目は男らしく
力強い。帰る時間まで半端な時間(2時間位)しかなかった。何
もしないで時間をつぶしてはもったいない。歩いて近くの公園へ
行った。シンジくんがキャッチボールをしている中学生に優しく
声をかける。すぐにうち解けて中学生とキャッチボール。
シンジくん「ハヤカ球ナゲルネー」
中学生「130km/hくらい投げられます」
「ホーッ、ナイス」とか言いながらしきりに中学生を褒めている。
そんなやり取りをそばで聞いていた私は頭の中で、「褒めてもこの
子とはもう会えないのだから、どんなにこの子に素質があっても、
この後シンジくんが指導出来る訳じゃないのだから」とつぶやいて
いた。重大な決意を胸に最後の日本を楽しんでいるシンジくんに
幸多からん事を祈った。
後から思った。こんな時だから、イヤどんな時でも出会いを
大切にする。きっとシンジくんはその時私に、
”一期一会”を諭していたのだろうと。

2008.10.3

シゲちゃんは大人。

小学校の北東の端に給食センターがあって、その南側には給食準
備室があったと思う。ちょうどその二つの建物の間の石ころだらけ
の中庭が、鼓笛隊の集合場所でした。小学6年の頃、私は鼓笛隊
の大太鼓係りをやらされていました。ある日の事、急いで集合場
所に向かっていた私は、その場所でつまづき楽器でおなかを強打
した事を覚えています。
その時期一緒に大太鼓を担当したのが、シゲちゃんでした。週に
1度だったか?朝礼の時の行進は緊張したものでした。
運動会、神社のお神輿行列、いろんな場面で出番がありました。
演奏はどちらか1人が担当しました。朝礼は替わり番こ、それ以
外の行事の時はジャンケンで決めたり、やりたいと言ったほうが
やる、といった具合だったように記憶しています。恥ずかしいよ
うな、目立ってもみたいような、少年(私)の心は複雑に揺れる事
が多かったのです。そんな時、いつも私の意見を尊重してくれる
のがシゲちゃんでした。優柔不断な私をフォローしてくれる
シゲちゃんは当時から”大人”だったのだと思います。

2008.10.4

トレパンは白い。

私達の世代がキット最後なのでしょう。綿のトレーニングパンツ。
伸縮性も悪く動きづらい事この上ない懐かしい白いトレパン。
西条八十風にゆっくり語りかけるように詠めば、レトロに響くほど
昔の事(死語)になってしまいました。
「かあさん、私のあの白いトレパンはどうしたんでしょうね。」
「蓮華畑で汚してきて、こっぴどく叱られたあの白いトレパンですよ。」
学校から帰れば、ランドセルを玄関に置いたまま暗くなるまで外
で遊ぶ。これ当時の常識。
こっちの空き地にいなけりゃ、そっちの田んぼ、そっちにもいなけ
りゃ、向こうの小川、向こうにもいなけりゃ、あっちの神社。どん
な事があっても遊び相手に不自由した事などありませんでした。
アキノリくん、、ヤスヒコちゃん、カズボー、サトシくん、
ヒロユキくん、ヨシノブくん、みんな元気で遊ぶからトレパンは穴
だらけ。草にこすり付けてしまうとしばらくは緑色をしているので
すが、何回か洗濯をしているうちに茶色のアクだけが残ってしまう。
その時の母ちゃんのヒニクたっぷりの一言には、返す言葉もあり
ませんでした。「おまえんトレパンな、白かったっちゃなかとか?」
そんなトレパンで、怒られた人はいませんか?

2008.10.6

条件反射。

人間の習性と言うものは面白いものです。何十年も前に聞いた音
を耳にすると、ふとした時にタイムスリップしていることがあります。
@”エリーゼのために”を偶然耳にすると、
...お腹が減ってくる...
どうしてだろうと考えてみると、給食の時間に何度も何度も聞かさ
れていたからなのだろうと、思い至る。
A”ビューティフルドリーマー”を耳にすると、
...眠くなる...
定期試験の勉強だと、みんなで集まってはお喋りばかり。やがて眠
くなり、目覚ましをセットして一休み。その目覚ましが無情にも大
きな音で鳴り響く。眠い!カズボーの家の目覚まし時計の音が、こ
の曲のオルゴールだった。
B”王将”を耳にすると、
...ついソワソワして来る...
早く学校へ行って授業前にサッカーをして遊ぼうと、小走りに急いだ
通学途中。町内マイク放送の始まりに、何時もかかっていたのがこ
の曲だ。
Cベンチャーズの”パイプライン”のテケテケテケテケを聴くと、
...カレーが食べたくなる...
コトーくんちのお母さんが作ってくれたおいしいカレーを思い出す。
コトーくんの部屋で何時も”テケテケ”聴いていたからだ。
D真新しい”靴のゴムがすれる音”を聴くと、
...つい聞き耳を立ててしまう...
今でも久富先生が廊下を歩いて来るような気がする。教室の廊下
側のガラス戸は閉まっていても、講堂へ授業に向かう先生の靴の
音だとすぐ分かる。音を大切にしましょう。そして思い出も。

2008.10.8

画像CDありがとう。

今日モトミッチャンから、8.16同窓会の画像CDが届きました。
忙しい中ディスクに焼き落とす作業は大変だったと思います。
幹事の皆さんには、大変お世話になりました。
ブログも画像が入れられて、賑やかになりました。

2008.10.10

「ブフフッ」。

中学高校の頃、流行った歌が沢山ありました。
「ひなげしの花」「17才」「わたしの青い鳥」.....
繰り返し聴きたい歌は録音したい。テレビでそのチャンスを待つよ
り、録音はもっぱらラジオでした。受信状態が突然悪くなり、あき
らめようにも、あきらめきれない事も度々ありました。
「オッキャノウーエヒンナゲシーノーザザザザーッ」
アンテナを強化して臨んでも、歌がまだ途中なのに突然大きな音で
「チローリアーン」
「シンシフクノフタタ」
...それはないだろう。
それからだんだん、音楽番組ならフルで聴かせてくれるFM曲を聴
くようになりました。
しかし、これだけ努力してもまだ解決できない問題がありました。
最後の敵は、たまたま周囲にいた家族や友達でした。録音中は
ひたすら声を出さないように注意することに神経を尖らせました。
人間黙っていろと言われると、余計に何やら可笑しくなって吹き
出してしまうものです。「ブフフッ」
テープを貸し借りすると時々そんな楽しいテープがまぎれていた
のも丁度その頃だったと思います。

2008.10.12

白い悪魔。

あの頃は何とも羨ましい食欲だったと思う。食べても食べても腹
が減る。食事の前だから腹が減ってくるのではない。食べてもす
ぐに腹が減るのだ。今から思い返してみると、どこか体でもおか
しかったのではないかと思うくらいよく食べた。
そんな毎日の一番の楽しみは給食だった。
中でも、カレー、ビーフン、磯辺揚げ、が好きだった。
しかしどんなに腹が減っていても、どんなに食べる事が好き
でも、ひとつや二つ苦手なものはあるものだ。
何時もオジャマな脱脂粉乳のミルクがそのひとつ。
それはまるで”悪魔からのプレゼント”のようだった。
「おいしい給食が食べたかったらコレも一緒に飲みなさい。」
と給食の時間になると、オジャマな悪魔が付いてきて囁く。
「ンンーマズイ」と言いながら、何とか飲み干せるガサツな私で
すらこの飲み物には手こずった。
ときに先生が「残さず飲みましょう!」などと半ば強制するよう
な日は、泣きながら飲んでいる女の子も何人かいたように思う。
確かに食べ物の中には、子供の頃は苦手だったが、大人になると
その味を美味しいと思える、その良さがだんだん解る食べ物も少
なくない。しかし、はっきり言ってあの脱脂粉乳のミルクだけは
そのタグイのものではなかった。

2008.10.14

半端に速い=結構辛い。

中学3年生の時だったと思います。校内駅伝大会の思い出です。
長距離走には多少の自信があった私でしたが、特別に速い訳で
はなく、遅い訳でもない。自信の程度は中の上と言うのが正しい
レベルだったと思います。新聞配達の甲斐もあって多少その能力
がアップしたように思い込んでいた時期でした。
クラスの代表を決める時点では、ギリギリセーフの選手に抜擢、
一抹の不安はあったものの代表には変わりなく、素直にうれしい
気持ちでした。
いざ大会当日、私が任されたコースはみやのせ橋の北のタモト
から西へ300mほど走った後、一路南へ300m、更に田んぼ
の真ん中を南東へひたすら走って折り返すコースでした。
何位でタスキを受けて何位で次に渡したのか、懸命に走っても
次から次に、後から来た選手に抜かされていくのはとても悔しい
出来事でした。
翌日、中央廊下に全コースの区間記録が発表されました。勿論
散々な結果である事は承知していたものの、ヤッパリ気になる
自分の記録。
結果は、同一区間でどの選手よりも遅いペケペケ。
半端に速いのも結構辛いものだと勝負の厳しさを知りました。

2008.10.16

一触即発。

私たちの小学校では、3年生になると分校からの生徒と合流し、同
じ校舎で学校生活を共にする決まりでした。
新学期が始まると子供ながらにも機先を制されないうちに、自分に
有利な関係を早めに作ろうと、いろんな場面で片意地を張っていま
した。お互いが同じような思いで接していたからなのでしょうか、
しばらくの間は毎日が小競り合い、ケンカ、トラブルの連続でした。
まさに一触即発の毎日でした。
そんな時期に真っ先に仲良くなったのがサンペーちゃんでした。
私が初めてサンペーちゃんちの近くへ遊びに行った日の事は忘れ
られません。
そこには、それまでに見た事もないおびただしい数の住宅が山の
中腹まで続いていました。それは圧倒的な迫力でした。街の入り
口には市場があって、商店、飲食店などで活気に満ちた空間でし
た。中でも街の真ん中にあった大きな銭湯は、道後温泉よりも立
派ないでたちに見えました。子供の私にとって炭鉱の住宅街はと
ても刺激的な明るくて楽しい”ミステリーゾーン”だったのです。
その後は、だんだんに打ち解けて新しい友達が沢山出来ました。
オガタくん、シャーボー、けんじくん.....

2008.10.18

山手線最長乗車記録。

池袋東口の怪しいビルにその事務所はあった。
ツジくんが「いいバイトがある」からと誘ってくれたのは二十歳の
頃だったと思います。住所書には5Fと書いてあるのに、どう見て
もその建物は4階建て。
「怪しい」
下の道路から見上げてもその事務所は見えません。それもその
筈、上って見ると屋上の真ん真ん中に建っている小さなプレハブ
小屋がその会社の事務所だったのです。
「ちょっと怪しゅうなかね」と疑いながらも即面接、即採用。
「怪しい」「ますます怪しい」人間あまりにも事が順調に進みすぎ
ると、逆に不安になったりするものです。
夜間工事の道路警備。
都市ガス工事あり、水道工事あり、舗装工事あり。
仕事を始めてみたら、そこはゴクまともな会社でした。
夜間の冷え込みに備えて、沢山着込んだ上に少し大きめサイズの
防寒服でからだを包み込むと寒さ知らず。
バイトも終わって、さて未明の始発でいざ帰還。
冬の山手線、冷えた体で電車に乗ると、5分もしない内に体中が
ポッカポカ、服を脱ぎたくても荷物が増えてカサバルのはいやだ。
徹夜明けも手伝って強烈な睡魔が襲ってくる。環状線をいいことに
つい気が緩んでしまう。すると品川当たりで目が覚める。乗り換え
てまたぐっすり。気がつくとまた品川。こんな事を繰り返しながら
4時間以上山手線に揺られた事がありました。

2008.10.19

チャントイエー。

体育祭の打ち上げだったのか?どんな事で集合が架かったのか記憶
していないのですが、高校も卒業間近な頃だったと思います。集まって
くれた皆のために、うちの母ちゃんが、とてもうまい料理を作ってくれた
時のことです。
それはボイルした烏賊をマヨネーズで和えて味付けをした珍しい料理
でした。皆があまりに美味しいと言ってくれるので、すっかり気を良く
した母ちゃんは、「お替りする人は言いんしゃい」とお替りを促しま
した。「オイモー」「オカワリー」の大合唱の中、
何を口走っているのかまったく聞き取れない男がただ一人。
”猫舌”を自他共に認めるリョウちゃんがその時の主役でした。
皆はもうとっくに食べ終わっているのに、まだ半分も進んでいなかった
リョウちゃんも、あわててお替り争奪戦に参戦してきたからさあ大変。
リョウちゃんは残りの烏賊をイッキにかきこみながら、口一杯に頬張っ
たまま、空のお皿を高く突き出して、「フームフムフムフーム....」
何かを口走っていました。
リョウちゃんがお替りを催促している事は、皆も状況から察していたの
ですが、モトミッチャンだったのか、ヤスアキだったのか、シンジくん
だったのか、はたまた、タカッシャンだったのか、カツミちゃんだった
のか、ツジくんだったのか、それとも.....誰だったか?
誰かが言いました。「チャントタベテカライエヨー」
リョウちゃん「フームフムフムフーム....」
更に、誰かが言いました。「マダタベキットランクセシテ」
リョウちゃん「フームフムフムフーム....」
そして更に、誰かが言いました。
「ナンテー?チャントキコユッゴトイエー」
リョウちゃん「フームフムフムフーム....」
散々な言われようでした。まともな会話になっていませんでした。皆で
リョウちゃんの”猫舌”をカラカッテ、楽しく過ごしたひと時でした。
勿論、リョウちゃんに後で訊いたら
「ハーイ、オカワリシマース」と言っていたのだそうです。

2008.10.20

1日ゲンコ2発。

札幌冬季五輪の開催時期と言えば、私たちにとって受験前の憂鬱
な時期だったと思います。テレビでは連日、それまでに馴染みのな
い冬の競技が映し出されていました。
ジャンプ、リュージュ、ボブスレー、ホッケー、中でもライフルを背に
してのスキーの速さと、ライフルで的を射抜いた得点を合計して競う
バイアスロンに至っては、初めて目にするミョウチクリンな競技でし
かありませんでした。
そんなある日の事、朝の掃除をしながら思いつきました。掃除用の
ほうきで思いついたのです。これでアイスホッケーができる。
後は球(正式にはパックと言うそうです。)さえあれば........
重くて硬そうな球が氷の上を高速で滑っていく様を想像しながら。
ウスッペライ円柱状で、少々重くて滑りも良い、人に当たっても
痛くない硬さの球......そうだ、赤鉢巻をテープ状に巻いた後で、
セロテープで完全に巻ききると丁度いい感じの球が出来ました。
講堂の掃除を早めに終わらせ、最初はヤスヒコちゃんと二人だけで
やっていたのですが、その内、ヨシオくん、コトーくん、セイイッチャン
と、その輪が広がり始めてあっと言う間に10人以上が奇声を
上げて「パス」「パス」「シュート」「ゴール!!!」
その時です。何処からともなくやって来た正義のティーチャー
その名は”はっちゃん”
静まり返る講堂の中、
はっちゃん「ダイガコギャンコツハジメタツカー」
私「ハーイ」それは紛れもなく私でした。ガツン1発目!
はっちゃん「コギャントケオキッパナシノヤツハダイカー」
「......」
はっちゃん「コギャントケオキッパナシノヤツハダイカー」
だんだん、はっちゃんがイライラして来るのがわかります。
「......」
はじめ何の事だか解らずにいました。朝礼の時に先生が座る長椅
子の上に濡れ雑巾が置きっ放しにしてあったのです。はっちゃんが
指差すその雑巾をよくよく見てみたら、それは私が使っていた雑巾
でした。
はっちゃん「コギャントケオキッパナシノヤツハダイカー」
私がやっと事の重大さに気付くまでの間、潔く即座に名乗りを上
げない容疑者に、はっちゃんの怒りは頂点に達してしまいました。
私「ハーイ」ガッツーン!!2発目!!
こうして、その日はゲンコを2発もらいました。
理由は、@掃除用具を大切に。A下級生に示しがつかない。
( 教訓 )みなさん楽しい事は、よく考えてからにしましょう。

2008.10.22

二人で行ってきました。

横浜、関帝廟にて

鎌倉、鶴岡八幡宮にて

2008.10.23

もう1回行きたか。

修学旅行は楽しかった。天草、臼杵、阿蘇、別府、「何が楽しかっ
たか」「何処が良かったか」と訊かれても返答に困ってしまいます。
何処も彼処も全部良かったとしか言い様がありません。
言い換えれば、皆とだったら何処でも良かった。これが結論です。
あの時のメンバーが揃って旅行をするなどという事は、二度と叶わ
ない事かと思うと少し寂しくもなりますが、そう思うと、やはりあれは、
奇跡や幻に近い出来事だったに違いありません。
同じ風呂に入り、同じ飯を食べて、夜の旅館の枕投げ、恋の悩み事
相談、立ち入った事のない互いの領域へ初めて入った感覚、入り込
まれた感覚、この互いの共通共有の感覚が友達になると言う事だと、
その時理解したような気がします。
バスの中、一人マイクを持たされて歌を披露するのは恥ずかしかった。
まるで”まな板の上の鯉”。自分の番が廻ってくるまで、人の歌に聴き
入る余裕など全く有りませんでした。しかし女子の多くが当時ヒット
していた「瀬戸の花嫁」を歌っていたのは強く印象に残っています。
帰りのバスの中で、久富先生に質問をした事を覚えています。
「先生は、ドギャン女の人ば好いとると」
少し間をおいて、男らしく「ソーニャー」と、また一息おいて、
「優しそうで芯の強そうな、十朱幸代のような人が良かて思う。」
この時、意外な答えを聞いたような気がした私は、久富先生や
十朱幸代のイメージと一緒に、自分の中で何かが変わったよう
な気がしました。
それは、”少し大人な感じ”とでも言うのでしょうか?

2008.10.25

妄想癖。

中2の頃だったと思います。ある日の保健体育の時間、
久富先生が、
「今日の自習の時間は絶対喋ったらいかんぞ!」
「もし喋った奴がおったら、自習が終ったときに言エヨ!」
「授業の終わりの時間にチャント出来たか確認に来るから!」
と言い残してサッサトいなくなってしまった。会議だったのか、何か
の打ち合わせだったのか?自習はつまらないが、久富先生の言う事
ならチャント守らなければならない。
仕方なく保健体育の教科書を黙読し始めた。すると、読んでいるうち
に、相撲のルールのページが面白くなってきた。そこには、技の種類
やかけ方が丹念に解説してあった。初めて読んだ内容に、徐々に引
き込まれていった。技のかけ方を想像しながら読んで行くと、以外に
面白い。そんなページの次に出てきたのが、反則技だった。色んな
反則技の規定の中に”頭突き”と言う文字が出てきた。
すぐさま頭の中では、大鵬と柏戸が頭突き攻撃で、やり合っている
姿を思い浮かべていた。
”頭突きなんてプロレスじゃあるまいし、反則に決まってるだろう!”
と思った瞬間だった。
「ズツキテッ!」つい大きな声で、独り言が口を突いて出てしまった。
ウカツだった!皆の白い視線、やばいと思った。
シゲちゃんと目が合った。先生が”喋った奴がいたら、後で言えよ”
と言っていたのだから、皆、私のことを言いつけるに違いないと覚悟
した。皆だって大好きな久富先生の言う事だから、私に悪気がないこ
とは分かっていても、報告することを義務だと受け取っているに違い
ない。私は観念しました!
自習の時間も終わり、予告通り先生が確認に来たが、誰一人
そのことを言いつける者はいなかった。
助かった!
( 教訓 )声を出してはいけない時は、
妄想に浸り過ぎないようにしましょう。

2008.10.26

ヒサシとじょうので。

炭鉱が閉山となった後、まもなく越していく家族も沢山ありました。
だんだん寂しくなる中、ついにその日はやってきました。
バスケットで一緒に汗を流したメンバーの一人、ヒサシくんが学校を
去る日がやってきたのです。
最後の別れを惜しんで、明るい時間は学校で何か(何をして過ごし
たのか覚えていません)をして過ごしたのだと思います。
そして夕暮れとなってもまだ帰る気にはなりません。とうとう真っ暗
な夜が来て、3人はあきらめました。
自転車をこぎながら、いつもと違う帰り道。少しでも一緒にいたい気
持ちで自転車もユックリと進みます。
でも、どんなにユックリ自転車を走らせても、じょうのの分かれ道ま
できてしまいました。暗闇の中、すぐにヒサシくんの自転車は見えな
くなりました。
私とカズボーは同じ道。ヒサシくんは独りぼっちで別の道。
カズボー「バーイ」。暗闇の中のヒサシくんに叫びました。
ヒサシくんからも「バーイ」。と返ってきました。
私も続けて「バーイ」。
ヒサシくん「バーイ」。
カズボー「バーイ」。
ヒサシくん「バーイ」。
私「バーイ」。
ヒサシくん「バーイ」。
カズボー「バーイ」。
ヒサシくん「バーイ」。
私「バーイ」。
............
声が聞こえなくなるまで3人は震えそうな声で繰り返しました。
もうあんな別れはしたくないと、その時そう思いました。

2008.10.28

サントリーは好かん!

小学校何年生の頃だったのでしょう?時々親と一緒に見るテレビ
番組の中に、”ザ・ガードマン”と言う番組がありました。
番組が始まる事を直前まで忘れていると、後が大変でした。水が
したたるような音や、ギターの弦をヒッカクような音とともに、
テーマ曲が始まると、身も心も凍りつきました。
子供の私にとって、人間の恐ろしさと、都会の恐ろしさを感じる番組
だったように思います。特に殺人事件や、夏の怪談話はとてつもない
恐怖でした。始まる前に済ませておけばいいのに、コマーシャルの
時間になると、無性にトイレに行きたくなる。でも行けないのです。
困りました。
考えてみればお笑いです。メークも特撮も、現在と比較すれば相当
低いレベルだったに違いないのですが、怖いものは怖いのです。
「ソガンエスカナラミランナラヨカタイ」
と時々、親にカラカワレテいたような覚えがあります。
親の言う事は、筋が通っているのですが、そうは行きません。
見たくないからと言っても、始まってからではもう遅いのです。
音を聞きながら布団にもぐりこんで寝る方がもっと怖い。例え音が聞
こえなくても、この番組が終らない限り、コレまでに見た
一番怖い場面が浮かんでくるのです。
怖い場面になると、なぜか両手で顔を覆い、指と指の隙間
から覗き見るような事もありました。
この番組のスポンサーがサントリーだったのです。
そんな理由からか、番組とは全く関係のない時間のコマーシャルでも、
サントリーのコマーシャルだけはあまり良い印象が有りませんでした。

2008.10.28

素泊まり800円。

二十歳の頃、バイトでためた小銭をにぎりしめて、名古屋、大阪
へ旅をしました。サンペーちゃんとシンジくんにどうしても
会いたかったからです。
昼過ぎに名古屋に着いた私は、サンペーちゃんが仕事をしている
昼間のうちは、街をブラブラ散策していました。東山の公園や
栄のプラネタリュウム、連日のバイトの疲れもあって、何処へ
行っても一人でいる時間は退屈で、居眠りばかりしていました。
しかし、夕方、サンペーちゃんと再会してからというもの、
”俄然元気一杯!”
ナナちゃん人形、中日球場、名鉄特急、名古屋城、電波塔.....
あちらこちらへ案内された後、宿に決めていた
”素泊まり800円”
の安い宿へ2人で泊まり、夜を徹して積もる話をしました。
その時すでに、将来を見据えて着実に自分の形を作り始め
ているサンペーちゃんを見て、羨ましくもあり、頼もしくも感じました。
次の日、大阪へ着いた私は、一路シンジくんのアパートを目指しま
した。何とか住所ひとつを頼りにシンジくんのスミカまでは辿り着い
たのですが、携帯もメールもない時代です。待つより他に方法が
ありません。3時間ほど待ったのですが、とうとう会えずに
東京へ帰りました。

2008.10.30

第三の男。

ケイちゃんが認定したボインあたまを持つ男に、忘れられない男
がいます。それは私と同じ名前のもう一人のミツオくん。
そんな縁が取り持つ3人はスッカリ身内の仲となりました。
ある日の事、ミツオくんの家に遊びに行った私は、初めての
経験をしました。それはレトルトカレー。
テレビのコマーシャルで目にした事のあった”ボンカレー”を
ミツオくんが作ってくれたのです。
沸騰させたお湯に3分を、どう間違えたのか。ほとんど温まって
いません。冷たいご飯に、ルーも流れ出さない程のボテボテで、
口を切った袋を逆さにしても中身がなかなか出てきません。
肉も冷たいまま、ジャガイモに至っては芯さえ残っている
ようなザリザリ感。
「ナンカウモーナカネ」
「ダマッテクエ、コイガボンカレータイ!」
「ウマカゴトセンデンシヨットニ、アンマイウモナカネ」
「モンクバッカイユワンデハヨクエ!」
初めてのハイカラな食べ物は、私の口には合わないものでした。
その時の二人にとって、ハヤリのボンカレーは、まだ作り方も、
食べ方も解せないシロモノだったのです。

2008.11.1

フィンランドってどこ。

札幌五輪でもうひとつ思い出しました。ジャンプ競技に強いフィン
ランドの選手が紹介されるたびに、耳慣れない、くすぐったくなる
ような、ミョウチクリンな名前が、とてもユーモラスで異国情緒を
醸し出していたと思います。
メコネン!ライコネン!最高に受けたのはミエチネン!!
「こんな吹雪じゃ何にもミエチネン!」
などと駄洒落を言いながら、飛行姿勢をまねていたような覚えがあ
ります。男子生徒の多くがふざけて真似ていたのは、
笠谷選手の金メダルジャンプ。
両手を腰の後ろで軽く組み、両足を屈伸させた状態からイキナリ立
ち上がりユックリ前のめりになりながら、あごを上げ、両手は伸ば
して腰につける。上級編になると、前に倒れこみながら、太ももあ
たりの学生服の黒いズボンを、指でつまみブルブル旗めかせ
ながら着地姿勢に入る。
なんとも風を切って空中を飛行する姿は、
”勇気に満ちた男らしい憧れの姿”だったのです。
ヤスヒコちゃんとヨシオくんとカズボーが上手かったと思います。

2008.11.2

水鉄砲の唄。

こんな題名の唄に覚えのある人はいませんか。
少なくともヤスヒコちゃんは覚えているはずです。
修学旅行のバスの中で、ヤスヒコちゃんが歌った時の事を
覚えています。私もその時、この唄を歌いました。
小学校の何年生の時に教えてもらった唄なのでしょう?
短くてとても重宝な唄でした。。
当時は、カラオケもない時代です。人前で唄を歌うのはとても恥ず
かしかった覚えがあります。でも小学校の、年に1度の修学旅行
の時だけは、歌わない訳には行かなかったのです。
恥ずかしいから、出来るだけ早く唄を終らせたい人には
大人気だったこの唄は、今でも忘れられません。
「水を沢山汲んできて、水鉄砲で遊びましょう。
1、2、3、4、シュッ、シュッ、シュー。」
これで全部です。

2008.11.3

マイラグジャリーナイト。

昨夜9時を少し過ぎた頃、唐津くんちの現場から曳山実況が
入ってきました。
電話の主はモトミッチャン。
モトミッチャン「キコユッ?キコユッ?」
私「キコエン、ナンモキコエンバイ!」
1度目はこんな具合でした。
しばらくして、次の曳山が近づいて来たようです。
携帯を曳山の列の方に向けて、音を拾ってくれているのが
分かります。
「.....ショイ.....ショイ.....ショイ」「ワーッ」
モトミッチャン「キコユッ?」「コンダキコエタ?」
私「キコユッ!キコユッ!キコユッバイ!」
2度目は聴こえました。
確かに曳き手の掛け声と観客の声援が聴こえました。
私と血液型が同じモトミッチャンは、キットお祭り好きな
ところも同じです。( 勝手な完全断定! )
とても嬉しい故郷実況でした。昨夜はモトミッチャンの
心温まる実況を独占した、とても贅沢な夜でした。

2008.11.7

森田健作のように。

所属していたバスケット部が廃部となり、すっかり気落ちしていた
私達にも、次の策が何も無かった訳ではありません。そんな時、
当時テレビで放映していた人気ドラマ「俺は男だ!」、が勇気を
与えてくれたのです。それは森田健作が剣道同好会を創って
活躍するドラマでした。
早速、廃部になった時点で部員だった皆に声をかけて、放課後
バスケットの練習をはじめました。同好会が発足したのです。
正式に認められていない活動はヤハリ寂しいものでしたが、
バスケットができるだけで幸せだったのです。
そんな時も久富先生は私達の味方でした。
「クサバ、オマエハソガンバスケットバスキカ?」
「ハイ!」
「ソンナイバ、アンマイオソナランウチニシマエヨ」
「ハイ!」
嬉しかった。そんな幸せな日がしばらく続いた。
何時も私達を見守ってくれていた久富先生に感謝した。
しかしある日の事、バレーコートへ行く前に、久富先生が私達
に近づいて来て、言いにくそうに言った。
大まかにはこんな内容だったと思う。
「 顧問の先生もいないのだから、何かあったら問題になる。と先生
方も心配している。気持ちは解るが同好会の活動は停止するように。」
心配する先生方の意見を、一番若かった久富先生が、指示されて
伝えに来た事は、おおよそ推察できた。このまま言う事を聞かず
に活動を続ければ、大好きな久富先生に迷惑をかけてしまう。
そう理解出来たとき、私たちはバスケットをあきらめる
決心をしたのです。ほんの短い期間でしたが、私達
の母校に”バスケット同好会”が存在したのです。

2008.11.7

達磨さんが転んだ。

当時は旅行のお土産物というと、置物だろうがペナントだろうが、
やたら「根性」とか、「努力」とかって文字の入った品物が売
られていました。その後はだんだん「友情」とか、「和」とかの
文字が入ったソフト路線に変わって行ったような気がします。
私も中学校の修学旅行で、”臼杵の石仏”の旅行記念に、
「努力」の文字が入った石彫りの達磨さんを買いました。
最初のうちは、机の上に飾っていました。それを見ると
なんとなく何でもくじけず頑張れるような気がしたのです。
しかしそのうち、毎日その達磨さんの置物を見ていると
何時も威圧されるような、束縛されているような居心地の悪さ
を感じるようになりました。そんな理由で私はその達磨さんを、
とうとう机の引き出しにしまい込んでしまったのです。
引き出しを開けるたびに、ゴロゴロ、ゴロゴロと達磨さんが音を
立てていたのを思い出します。軟弱な私が買ったばっかりに!
あの達磨さんは、今頃何処でどうしているのでしょう?

2008.11.14

条件反射 part-2。

松林を見ると。
...潮風の匂いがしてくる。...
それは決して庭木として手入れされているような、形の良い小さな
ものではなく、身の丈9m10mは在ろうかと言う松の林を不意に見
たとき起こる現象です。その林を抜ければそこには海が広がって
いるような気がしてくるのです。海無し県に住んでいると、頭の中
のどこかで、何時も海を探しているのかもしれません。子供の頃、
よく連れて行ってもらった唐津の海を連想させるのでしょうか?
夏の日の海水浴は、とても待ち遠しかった。
当日は、あっという間に一日が過ぎた。
そんな環境で育った私にとって松林=故郷。なのだと思います。
それは私が故郷を思うとき、なくてはならないアイテムなのです。

2008.11.15

石鹸食べとらん。

小学校の低学年の頃、ある日突然、幼馴染のみきよちゃん
に呼び止められて、
「みっちゃんは、石鹸食べたて本当?」と訊かれた事がありました。
私は即座に「そぎゃんとば食べた事はなかばい!」と答えました。
子供の事です。話の出所を辿っていくと、いつの間にか話は歪曲
され、尾ひれが着いている事も、時々あったような気がします。
それは、数日前のこと、
学校からの帰り道、上級生の女の子( 多分サトシくんのお姉さん )
と給食のチーズの話しをして帰りました。
全てはこの会話が事の発端だったのです。
女の子「またうもなかチーズの出たね、今日も」
私「好かんと?」「食べきらんと?」
女の子「好いとると?」「食べきると?」
《 -----この矢継ぎ早の質問法や回答法は、子供にだけ許された、
 相手に感動を伝えるための特権的話法だったかもしれない?-----
-----私の場合、今でもこの話法を使っていますが。----- 》
私「最初はそがんまで好かんやったけど、
今頃うまかて思うごとなった。」
女の子「イヤーッ、あぎゃん石鹸の味のするとバヤ!」
私「食べてみてーん、まあまあうまかバイ」
この会話をたまたまそばで聞いていたみきよちゃんの友達が、
どう聞き違えたのか?いつの間にやら私が石鹸を食べた事が
あると言う話にしてしまったらしいのです。
情報を確認しようと試みたみきよちゃんは、その時
りっぱなジャーナリストだったのだと思います。

2008.11.18

ほんの少し。

最近、谷川俊太郎の「生きる」という詩が共感を呼んでいるそうです。
私も何気なく読んでみました。
人はどんな時に、生きている実感を持つのでしょう?
人はどんな時に、生きている意味を発見するのでしょう?
10年前だったら、20年前だったらどの様に感じたのでしょう?
若いと言う事は沢山のことが解っていないという事です。
若いと言う事は沢山の可能性が有るという事です。
逆に歳をとると言う事は少し物事が理解できるようになったと言う
事であり、ほんの少し可能性を減らしたと言う事です。
.....断言します!.....歳をとると言う事は”良い事”なのです。
若い頃には出来なかった判断(知識、常識、良識に基づく
本質的価値の見極め)ができるのですから。
僕らが少年だった頃、相撲の解説に、彫刻家の棟方志功さんが度々
招かれていた事を思い出します。なんとも場違いな、技術的な解説
など望むべくもない爺様が、なにゆえその場にいるのか、
当時は理解に苦しみました。
何を訊かれても、
「有り難い」
「もったいない」
しか言わない老人に、解説者として
期待するものなど何もないと思っていました。
この歳になってみて、なんとなくですが、ほんの少しですが、
彼がそこに招かれていた意味が解って来たような気がするのです。
伊達に歳をとる事をしないで、誰かのために、豊かな人生のため
に努力してきた人は皆、歳をとってから感謝されるのです。
誰かのために生きる人生=感謝される人生(同時に感謝する人生)
=豊かな人生と言う事なのでしょうか?
僕らはまだ、ほんの少ししか解っていないのです。
僕らはまだ、ほんの少ししか生きていないのです。

2008.11.22

5回は見ないと。

-----レミーのおいしいレストラン-----私はこの映画が好きです。-----
人生をどれだけ楽しもうとして生きるのか?
自らの夢にどれほど夢中に取り組めるのか?
これがこの作品の大きなテーマだと思います。
レミーの想像(目標とする生き方)の中のオーグスト、グストーの言葉に
「後ろばかりを気にしていると、先で待っているものに気づかない」
という一節があります。
まだまだ若い僕らの世代は、ポジティブかつ挑戦的でなければならない
と思います。この作品の良さは、5回以上見なければとても
理解できない濃密なメッセージの傑作だと思います。
見るたびに新たな発見のある作品です。
------------------------------------------------------------------
この映画を、尊敬するジャーナリスト、故、筑紫哲也氏風に評論
すれば、こんな具合だと思います。----------------------------------
「おおよそこの国の常識で推し量れば、料理とねずみという、人間の
生活の中に、互いに同時には相容れる事のない組み合わせは、さす
がにあまりにも非常識と、官僚の多くは首をひねるに違いありません。
なかんずく、食品衛生教育の観点からすれば、間違っても食の安全
を守る立場の厚労省の面々が、この作品を推薦する事などはありえ
ないと言ってもいいでしょう。
しかし、これは子供たちに見せなければならない映画なのです!
エンターテインメントなのです!
無気力な子供たちの将来を案ずるだけで、教育の無策を嘆くのでは
なく、私たち大人は、もっと子供たちの教育に責任を持ち、
深く反省すべき時が来ているのです。
厚労省のお役人は立場上推薦を控えたとしても、教育行政の最高
機関たる、当の文科省は推薦するといった個別の”粋な判断”を、
国民の多くは待ち望んでいるのではないでしょうか。
タブーに挑戦する新しい発想に基ずく作品だからこそ、そこには純粋に
追い求める、夢、希望、愛、勇気、創造、が強く描かれています。
この国の行く末にかんがみた時、この作品から学ぶ点は多いものと
思われます。」-----------------------------------------------------

2008.11.23

テレテレ。

ゆうべの閉店まぎわのひと時、少しテレクサイ経験をしました。
それはこのところ時々来店いただいている若いお客さん。
「あのブログが面白くて、時々更新はまだかなと覗いて見てます。」
「エッ!」
予期せぬ問いに絶句してしまいました。
年甲斐もなく顔がほてってくる感じでした。
面と向かって同窓生以外の人からブログの話をされたのは初めて
だったのです。
「炭鉱が閉山して友達と別れたり、ゲンコツを2回もらったり、小説
みたいですよね。」こんな風にもその若いお客さんは言ってくれた。
なんだかテレクサイ。
「同窓の仲間がこれを読んで昔を思い出したり、笑ったりしてくれれ
ばいいなと思って書いているんですよ。」と説明はしたものの
考えてみれば最初から、
同窓生以外の人も立ち入れるホームページの中なのだから、
見てみようと思えば誰でも見る事が出来ることは承知の上。
少し読んでみようかと思っても、よほど根性がない限り、難解な
九州弁の意味を想像しながら読み続けることはしないだろう
と思っていたのです。
「九州弁は解る?」
「やっぱり九州なんですか、解りません。」
「じゃー、コギャントケって解る?」
「いいえ」
コギャントケオキッパナシノヤツハダイカーの意味の
説明を聞いて彼は帰っていった。
「また更新してくださいね。」
と帰り際に念を押されたとき、
ヤッパリ少しテレクサカッタ。

2008.11.24

鎮座する家宝。

話は、昭和39年東京オリンピックの年までさかのぼります。
それ以前、故郷の平均的な家庭には家電と名のつく品物と言えば、
照明用の白熱球が各部屋にぶら下がっていたくらいのもので、
他にはせいぜいラジオがあったくらいでした。
テレビと洗濯機の両方を持っていたのは、
まだまだ一部の裕福な家庭だけだったと思います。
その頃、少し早くにテレビを買った隣のかっちゃんちへ、
その夢の宝箱を見せてもらいに、時々通っていた覚えがあります。
オリンピックの年、ついに我が家にも四本足のテレビがやって
来ました。細いその足の下には、小さなお皿のような
受けが置いてあるのですが、
その受けも足の太さより少し広いだけの
ものだったので、受けごと畳に喰い込んでいました。
これもテレビの影響でしょう。男兄弟でプロレスごっこ。
又サキ、尾てい骨割、空手チョップ。
ある日、調子に乗ってあばれているとテレビに
ぶつかってしまいました。
当時、家宝のような存在だったテレビにぶつかる事なぞ言語道断、
我が家においてこの行為は、犯罪の範疇の出来事だったのです。
二人の兄は同罪の身の上。
しかし三つ下の妹が、親に告げ口をしてしまうかもしれない?
3人の悪ガキどもは、そんな時ばかりは妹に対して、口止め
代わりの優しい兄貴っぷりを、メイッパイ振舞いました。
オリンピックを見せてあげたい。そんな一心で世の中の
親父たちは、必死で働いてテレビを買ったのだと思います。

2008.11.25

仮説、「つける」。

今でも照明のスイッチを入れる事を「電気をつける。」と言いませんか。
考えてみればこの言いまわし、歴史を伝える言い方なのだと思います。
テレビのスイッチを”入れる”。
掃除機を”かける”。
洗濯機を”まわす”。
なぜだか部屋の照明は”つける”。
これは遠い昔、ランプに種火をつけて
部屋を明るくしたところから来ているのではないでしょうか?
明かりを得るために電気のインフラがすすんだ経緯からすれば、
明かりを得るための行為を表す動詞は”つける”が、
最も自然だったのではないでしょうか。
そんな風に考えてみると、スイッチを入れると明るくなるテレビも
テレビを”つける”と言っていました。
更にこれが拡大引用され、何でもスイッチを入れる事は
”つける”を使うようになったのだと思います。
掃除機をかけるは、雑巾を”かける”や、ほうきを”かける”から。
しかし、それまでに見た事もなかった動きをする洗濯機だけは、
”まわす”という動きそのままの表現しか
思いつかなかったのでしょう。
毎日毎日テレビを何時間も見ていると、母ちゃんには、
こんな風に怒られていました。
「こいが、テレビばーっかいつけちょっとん」

2008.11.27

翼がほしかった。

今朝テレビで山本潤子さんが、「翼をください」 を歌っていた。
誰にもまねの出来ない彼女の声をどう表現すればいいのだろう。
透き通るしなやかな声、高音のかぼそい声、折れそうな切ない声。
青春の頃、その声に何度聴き入ったことだろう。
「卒業写真」、「冷たい雨」、「竹田の子守唄」。
彼女にしか歌えない唄だ。
その歌声に思い出すことがありました。
それは、高校生のある日、コトーくんと田代岳に登った日のことです。
晴れ渡ったその日は、佐賀の平野も、有明の海も見渡せる日でした。
たおやかなる陵線のかなたは、白と薄い水色が溶け合っていました。
峰々の個々の主張は、まるで何も無かったかのごとく静かな世界。
先生が住んでいるところはキットあのあたりだ。
大好きな先生が病に倒れた。
その時僕らは無力だった。
「センセーッ、ハヨーヨーナレヨーッ」
「センセーッ、ハヨーヨーナレヨーッ」
「センセーッ、ハヨーヨーナレヨーッ」
「センセーッ、ハヨーヨーナレヨーッ」
大きな声で叫んだ。
何度も何度も叫んだ。
それは、もはや単なる願望ではなかった。
祈りだった。
先生に聞こえそうなくらい大きな声で叫んだ。
天にも、神にも届くように叫んだ。
翼を持たない僕たちは、せめてそこまでしか近づけなかった。
If I were a bird.

2008.11.28

分水嶺。

田代岳の西に降った雨は、松浦の流れに乗って唐津の海に注ぎ入る。
東に降った雨は、佐賀の平野を縦断して有明の海の水となる。
丁度あの頃の僕たちと同じように、
天から降ってきて離れ離れになる。
炭鉱の家々に生まれた子は、引っ越してよその子になった。
農家に生まれた僕は、別れを嘆く子になった。
だけど今はどうだろう。
僕は遠くで暮らしている。
あのかけがえのない時間と記憶を分かたれても、
僕らはずーっと一緒だった。
少しでも同じ記憶に結ばれるのなら、
少しでも共有するものがあるのなら、
これからも僕らはずーっと友達だ。

2008.11.30

オリオンが好き。

最近、星を見てますか?
僕はこのところ、メッキリ見る機会が減っていました。
ゆうべ10時頃、久々にガバイ綺麗な満天の星を見ました。
南東の方角に、冬の星座オリオンが輝いていました。
やや縦長の長方形の中央に、ほぼ等間隔で右肩上がりの
三つ星が並んだこの星座は、
子供の頃からの、お気に入りです。
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左上がベテルギウス、
右下がリゲル、
中ほどの三ツ星の
左からアルニタク、
次(中央)がアルニラム、
右がミンタカと言うそうです。
今夜晴れてたら、1分以上見つめてみてください。
真剣に目を凝らして見てみると気分爽快です。
願い事をするもよし。
楽しいことを思い出すのもよし。
時には、子供の頃に戻ってみるのも.....

2008.12.1

赤城山が好き。

この山は、子供の頃から好きだった田代岳に似ています。
先ほどチョイト写真を撮ってきました。
いい山でしょう!

2008.12.22

がんばれ旭化成。

12月に入って忙しくなってきました。
更新が遅くなってごめんなさい。
毎年正月元旦と言えば実業団駅伝の応援です。
今年も例年通り交通規制の看板が張り出されました。
毎年これを見ると師走を感じます。
当日は店舗の駐車場で大きな声を張り上げて応援しています。
旭化成、九電工、富士重工、たくさんの選手が走ります。
時々店舗も画面に入る事があります。我が家では毎年、
看板の時刻ころ、家族総出で応援するキマリです。

2008.12.23

Merry Christmas。

もとみっちゃん何時も有難う。
今日とてもステキな画像が届きました。
佐里温泉のイルミネーションだそうです。
寒空の中でこんなに綺麗な画像が撮れるなんて。天才!
僕のこころはあったかく弾んでいます。
まるでホットスプリング!←温泉に掛けてみました。

2009.2.5

51歳の挑戦!

久しぶりの更新です。
リーマンショック以来、
私の商売も日を追うごとに厳しさを増して来ています。
「悩み苦しみ乗り越える。」
そうは言っても今回ばかりは、そんなに簡単でもなさそうです。
苦悩する時間は短ければ短いほど良いと言う事は、
これまでイヤと言うほど学習してきたはづです。
刹那と怠惰に浸りきり、自虐的快楽を愉しんでいるほどの余裕は
ありません。今こそ新しい挑戦の時です。
と言う事で、
私の結論は、新種のシュリンプの繁殖をすることに決定しました。
上の画像はブラックパンダと呼ばれる新種です。2008.12.24導入
下の画像はゴールデンアイと呼ばれる新種です。2009.1.10導入
秋の販売開始までに増やしまくる計画です!
稚エビが誕生したら画像アップしますのでお楽しみに。

2009.2.18

やったぜ!

1枚目の画像はゴールデンアイの抱卵直後の様子です。
予定では3週間ちょっとで孵化するはづなのですが!
2枚目の画像はブラックパンダの稚エビの孵化直後の様子です。
メカチックなところが男心をそそります。
3枚目の画像はブラックと同時に導入したレッドシャドーと呼ばれる
新種のお母さんです。なんとも色の濃い魅力的な個体です。

笑いをこらえきれないッて感じがいいですネ。
何度見ても、この写真は傑作だと思います!
今度、同窓会する時もこんな顔して集まろうネ。

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